そうだ京都、行こう! 1

ちょっとパピヨネスク(いきなり他の話題に蝶のように飛ぶという勝手な定義)して・・・時折、関西に行く用があるのですがだいたいは日帰り。でも今回はアポ(西宮)が午後3時だったので一泊することにして・・・「そうだ京都、行こう」、正確には「京都寄ろう」。京都で幼稚園まで暮らしたあとに西宮に引っ越し、その後、学生の4年間は京都に戻ったため計10年を同地で過ごしたことになりますが、その後親戚もいなくなって縁がなくなりすっかり足が遠のいていたのでちょっとセンチメンタルでノスタルジーを感じる数時間でした。

↑ いきなり時代を感じるセピアの集合写真。通っていた禅林寺永観堂(紅葉の美しさ、重文の「見返り阿弥陀」等は有名)幼稚園での入園式。この中にいる。

↑ 京都駅から初めて地下鉄に乗って蹴上に到着。乗換1回でものの15分程度で到着して便利さに驚愕したが、結局、東京やパリの地下鉄と違い、縦と横と一本ずつあるだけなので、利用は限定的であることもあとでわかった。蹴上前の都ホテル、いまではウェスティンの運営になっていた。撮影している背中側の九条山という山の中腹で幼稚園まで暮らした。

↓ ここから登ってゆく。

↓ インクラインの疏水。蹴上インクラインとは、琵琶湖疏水による舟運ルートの一区間をなす傾斜鉄道で南禅寺・蹴上間の延長582m、落差36m。この36mの高低差を克服するために舟を台車に乗せ、ケーブルカーと同じ原理で運んだもの。

↓ この疏水で夏の夜、無数のホタルが飛ぶまるで新海誠ワールドのような光景が脳裏に焼き付いている。左が通園路だった。「舟と台車」が保存されている。

ここで本来のパピヨン(蝶:フランス語)に寄り道?するとこの一帯の桜の古木には珍蝶キマダラルリツバメが棲息することが知られている。幼稚園時代には知るよしもなく、その後、学生時代に御室の仁和寺の桜で同蝶を観察したのに留まり、その後はこの珍蝶の撮影はできないまま今日に至っている。一度は撮ってみたいものだ・・・

↓ 住んでいた家を確認、苔むした橋の右にある家だったが木造2階建てはすっかり建替えられていた。

↓ 幼年時代、自分にとってはほとんど全世界だった道や広場はことのほか小さかったが3分ほどさらに坂を登るとかねがね一度訪れたかったヴィラ九条山が姿を現した。

長年通っている東京日仏学院の母体であるアンスティチュ・フランセ日本が運営するアーティスト・イン・レジデンスであり1992年に関西日仏交流会館として竣工。

↓ コンクリート打ち放しは余り好きではないが、この建物は廻りに溶け込んで調和している。月の第1木曜だけ公開されているが火曜だったのにも拘わらずインターフォンで東京の日仏の学生で昔すぐ下に住んでいたなど説明して特別に館内を見せていただいた。仏人アーティストのアパートメントがいくつかあって6~7人生活しながら創作活動、研究活動をしているとのこと。

↓ 内部

ヴィラ九条山をあとに昔の通園路を通って永観堂に向かう。途中、金地院を拝観、「鶴亀の庭」を眺め、最近イーロン・マスクも語るというWabi-Sabiの世界にしばし浸る。朝の通園時には金地院のクニちゃんと向かいの南陽院のマサズミちゃんと待ち合せて(こんな名前をよく覚えているものだ、我ながら・・・)、南禅寺を通って幼稚園のある永観堂に向かうという3人集団登園。みなさん元気かな?

↓ 永観堂幼稚園を確認。お寺の建物内部の拝観は時間の都合でカット。

↓ 10月29日だったので紅葉には1ヶ月早い。スギゴケに覆われた永観堂の庭( ← 凄すぎる、これがお寺のホームページか!)

↓ 永観堂をあとに学生時代によく歩いた「哲学の散歩道」経由、銀閣寺方面に向かう。

↓ 今出川通りから50mほど北に入った北白川の下宿に到着。突き当たりの白い車の左にあった木造2階建ては建替えられていた。ここの1階に家主のオバサンのお住まいと4.5畳が1部屋、2階には4.5畳が3部屋、6畳が1部屋、それに共同の洗面・トイレという質素かつ当時としてはごく普通の下宿屋さんだった。学生たちはおばさんの用心棒代りだったのだろう。バードウォッチャーにして、時折本サイトにコメントを投稿いただいている taka さんもここの住人。

↓ 当時の6畳の部屋にタイムスリップ(もちろんアーカイブ画像)。勉強などしている雰囲気は微塵もない。下宿代1畳につき月千円、従い月6000円だった。授業料も月千円でこれが2千円になるということで闘争となり封鎖、試験はなくなりレポート提出でOKという頃。

↓ 下宿前から今出川通り、後方の吉田山を望む。左の仮囲い内には当時、ツタに覆われて「偉大的毛沢東主席万歳」とペンキで大きく書いてあったかなり大きなビルがあったが取り壊されたようだ。これから新築工事かな?

↓ 今出川通りから大文字如意ヶ嶽を望む。北アルプス登山の自主トレと称して、リュック(キスリングと呼んでいた)に20キロほと本類を詰めて昼と夜と何回か大文字登山をしたことがあるが、夜はただただ暗闇が怖かった。

今や建物の中層化により山の姿も街並みもすっかり落ち着きのない雑然とした景色に変わってしまった。通り向かいに「大文字湯」という銭湯があって毎日通っていたが68円だったと記憶しているが、もちろん既に消えていた・・・ここで制限時間いっぱい、タクシーを拾って四条河原町まで行って、阪急電車で西宮に向かった。

 

 

 

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